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佐藤泰郷書簡-3/4 2020/04/03 [『木片勧進』書状]

佐藤泰郷書簡-3/4
佐藤泰郷書簡4本文・よみ.jpg
04読み補足.jpg
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佐藤泰郷書簡-2 2020/04/02 [『木片勧進』書状]

佐藤泰郷書簡-2/4
佐藤泰郷書簡-3本文・よみ訂正.jpg
佐藤泰郷書簡-2-本文の読みについて.jpg
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佐藤泰郷からの提供古材
『木片勧進』首十からー.jpg
 封筒のところで確認したように、「六十六・六十七」は『木片勧進』整理用に武四郎が書き込んだ数字である。六十六は右図「に三」に、六十七は左図「〇チ」に使ってある。『木片勧進』は古材提供者への報告書でもあった。どのような古材であったかはこれから明らかにされていく。
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明治の消印
消印2.jpg 手紙の日付は年は書かないことが多いので困ってしまうが、明治になってからは消印が押されるので分かることが多い。佐藤泰郷が5月11日の夜したため、翌朝投函した。どうして朝だとわかるのか。投函した手紙の封筒にはこのような消印が捺されていた。左の消印に「古川/五・十二/ろ」とある。「ろ」が受付時刻を表す。「い便」は8時10分~30分、「ろ便」は9時25分~45分であるとのこと。↓「レファレンス協同データベース」による。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076462
 この手紙は5月19日東京に着いたが、時刻は読み取れない。この場合は時刻なんかどうでもいい。武四郎の東京帰着は5月22日であったから。
 武四郎の明治19年の旅は、4月22日出発、5月22日帰宅の44日間であった。一畳敷書斎で隠居の身を楽しんだりしていなかった。
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佐藤泰郷書簡-1/4 2020/04/01 [『木片勧進』書状]

佐藤泰郷書簡-1/4
 武四郎のくせのある崩し字にはかなり慣れたように思いますが、一般の書簡は苦手です。勉強のためなので、自分なりの翻字を載せます。読み切れないので4分割しました。ご批正の程よろしくお願いします。
佐藤泰郷書簡-2-本文・翻字.jpg
佐藤泰郷書簡-2-本文1-1よみ.jpg
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佐藤泰郷書簡封筒 2020/03/31 [『木片勧進』書状]

佐藤泰郷書簡-1-封.jpg佐藤泰郷書簡封筒
 封筒表
  東京神田五軒町十五番地
  松浦武四郎殿
    至急平信 六十六/六十七
 封筒裏
  五月十一日夜認十二日投函
   飛騨古川町大野
     佐藤泰郷
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*佐藤泰郷は飛騨の豪農。
 彼が「一畳敷書斎」のために何を送ったかについては書簡を読む中で明らかになってくる。
*「六十六/六十七」は異筆
 多分武四郎が整理用につけた数字。下記右図に「六十七」とあるが、この部分に使ったということを示す。 

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刊本『木片勧進』
刊本木片勧進モノクロ04.jpg
 武四郎は何か大きな事をすると、そのまとめを何かの形で残すことを常としていた。一番多いのは日誌や地図であった。稿本として残すだけではなく、出版することも多かった。また、彼独特のやりかたで残すこともあった。たくさん集めた古銭は『古銭譜』を作り、最終的には大蔵省に寄付をした。古物・骨董の類は河鍋暁斎を煩わして『武四郎涅槃図』に描きこんでもらった。大峰奥駆けの稀有な経験は、吉野の金峯山寺蔵王堂への大神鏡奉納となった。天神・天満宮めぐりは『聖跡二十五霊社順拝双六』として残した。晩年の3ヶ年にわたる大台ヶ原登山は牛石ヶ原での護摩供養を挙行して大台ヶ原の開山を披露した。
 明治10年代、毎年続けた旅行は毎年稿本・刊本として残したのであるが、それを全体としてまとめる必要を感じたのであろう。彼は旅の中で知り合った人々に近くの寺社の古材を送ってもらい、小さな書斎を作った。「一畳敷書斎」と言われるものがこれであり、彼は「草の舎」と呼んだ。
刊本『木片勧進』は誰に何を送ってもらったか、古木の来歴とそれを書斎のどこに使ったかを図入りで示したものである。
 松浦武四郎記念館の展示室の中に一畳敷書斎のレプリカが設営されている。それを見て、この設えはテントと同じだな、と感じたことがあった。テントと言っても運動会用や夜店用に立てるテントではなく、登山用のテントである。一日の山道歩行を終えて、テントを設営して疲れを癒やし、翌日の歩行に備えるために眠る。そして翌朝はテントを撤収し新しい歩行に移る。いわばテントは今日と明日を連接するもの、継手である。
 一畳敷書斎を論ずる方の多くは、この一畳敷書斎は人生の終わりに思い出のよすがとして武四郎が建てたものとおっしゃる。この書斎の中で読書と思い出に耽ったとされる。隠居の身となった、お疲れ様・・・はたしてそうなのであろうか。
 刊本『木片勧進』の出版は奥付に「明治二十年二月二日届/同 二月刻成」とあるから、一畳敷書斎の落成は明治20年1月までに済んでいるかと思われる。一畳敷書斎の落成、『木片勧進』の出版以降、彼は世捨て人となっておとなしく隠居していたであろうか。20年3月22日東京を発って、太宰府まで出かけ、帰りがけに3回目の大台ヶ原登山をするという67日間に及ぶ旅をしている。8月21日から29日までは富士山登山を果たした後、養女まさの三七日法要に参加している。ここからは隠遁人のイメージは全く出てこない。今までの年と同じく、稿本を記し刊本を出版している。21年亡くならなかったら、それ以降もやはり同じように旅をし記録を残していたのではないか。
 彼にはやり残したことがいくつかある。伊勢側からの大台ヶ原登山、聖跡二十五霊社の周知のための何らかの取り組み。1年とはいわず、何年か生きてやってほしかった。
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『梅嵯峨志』補足 2020/03/30 [梅嵯峨志]

補足というか余談というか
 今日から『木片勧進』書状の解読に取りかかる予定でしたが、初めから躓いてしまってUP出来そうにありませんので、『梅嵯峨志』の挿絵について補足をすることにします。
 今までいくつかの稿本の解読を行ってきましたが、原本を横に置いて読んでいるわけではありません。原本は厳重保管されていて、解読あるいは研究用に利用したい場合は願い出て、PDFファイルを提供してもらっています。
 『梅嵯峨志』については、2種類のPDFファイルを提供してもらいました。ひとつはモノクロで全頁が揃ったもの、一つは彩色を施した挿絵のみを収録したものです。彩色を施したのは武四郎で、モノクロにしたのは現代のだれかです。170年程前に書かれたものなので、虫食いや汚れ・しみがあります。HPやブログに載せる時はなるべくそれらを取って見やすくしています。
 彩色版の方から挿絵2枚を載せて今日の分とします。

石打村の様子
挿絵122-1500.jpg
太山村から高尾村へ
挿絵8131-1500.jpg
明日からは『木片勧進』書状の読み
明日から何を読むか。1月8日時点で読みたく思っていたのは、①『海防策』、②『続西海雑誌』、③『梅嵯峨志』、④『豆遊日誌』、⑤『松浦武四郎大台紀行集』(『乙酉紀行・丙戌前記・丁亥前記)』の解読再吟味であった。このうち、⑤の『乙酉紀行・丙戌前記・丁亥前記』の各前半部は1月から2月にかけて読み切り、3月は③の『梅嵯峨志』を解読した。明日からは残ったどれを読むかと迷うが、この三月のうちに読みたいものが増えてしまった。一つは『佐渡日誌』、一つは『木片勧進』関係の書状。しかし稿本『佐渡日誌』の影印は未入手で、明日からには間に合わないし、『木片勧進』書状はいろんな人物の筆跡に不慣れで読めるかどうか、自信がない。持ち越しの『海防策』、『続西海雑誌』、『豆遊日誌』のどれかにするか、『木片勧進』書状にするか。あれこれ迷って、結局『木片勧進』書状に取り組むことにした。刊本『木片勧進』も『木片勧進』書状も影印をPDFファイルで入手してある。武四郎の「一畳敷き書斎」用に木片を贈ったり、書状を寄せた人の多くは、明治12年以降の西日本旅行で知り合った人々である。稿本を解読する中で、読み手である自分とも親しくなっているので、その人たちの手紙を中心に読んでいくことにしよう。
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『梅嵯峨志』読み終わり 2020/03/29 [梅嵯峨志]

22日、梅武と別れて柳生へと志す
 閏2月22日。早朝、梅武老人と長匹(現・長引)村に到る。この村は田もあり、ずいぶんよい所と思われた。九折を下って、太山(現・田山)の渡し場に着いた。ここは「繰り船渡し」で、対岸との間に縄を張って、これを手繰って渡る物である。渡ると山城国の高尾村で20駄位は出しそうな梅林があった。ここで梅武老人と別れて、私は柳生へと向かった。
本文011.jpg
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太山・高尾・柳生・笠置の位置関係
太山は名張川右岸、高尾は左岸にある。
柳生へ02.jpg
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「クリ船渡」のあったのはこの辺り?
高山橋.jpg
20丁目-500.jpg「クリ船渡」のあったのは、現在高山橋のある所かなと見当をつけた。「高山」は高尾・太山から1字ずつ貰っている。月ヶ瀬湖は下流にある高山ダムに堰き止められてできたダム湖である。昔はもっと水位が低かったはずで、昨日(3/28)載せた挿絵には大きく描いてある「ハシカケ石」はこの辺りにあったのでは、と?印をつけておいたが、どうだろうか。
          挿絵再掲→
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挿絵-4 2020/03/28 [梅嵯峨志]

18丁目挿絵
18丁目-2.jpg
1丁見開き。右:本文 左:挿絵
画中の書き込み。白糸滝 天狗杉
*「白糸滝」は画中の右方に描かれている。その壺近くに天狗杉が黒々と立つ。
*画の左方にジグザグ道が描かれている。これを「羊腸」「九折」と呼ぶ。
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20丁目挿絵
20丁目-2.jpg
1丁見開き。
画中の書き込み。桃ヶ野 太山村 ヒロセ村 越て奥ヶ平村に出る柳生道也 峠 ホウカ平 クリ船渡 ハシカケ石 高尾村
綱繰り船渡し 右の挿絵の下の方に横線が引かれ、その中頃にヘンなものが付き、それに「クリ船渡」と説明がついている。「クリ」は「繰り」のことで、太山村と高尾村の間に綱を架け、これを手繰って船を渡す仕掛けである。両岸で渡し役が手繰ったのか、船の乗り手が手繰ったのかは不明。この地の歴史に詳しい方に伺いたい。
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茶の生産高と価格 2020/03/27 [梅嵯峨志]

茶の生産高と価格について聞き取り
 先に各村の烏梅の生産高は示したが、その値段は昨年1駄5両1分位であった、今年も5両以上になるだろうということである。水野様が老中にあった頃は1駄35匁にしかならなかったが、失脚後はすぐ5両にもどったという。
 その外、この地域は茶の生産がたいへんいいので、生産高と価格について聞いてみた。上等茶は1駄36貫目(風袋4貫目込み)で18~20匁位。下等茶は1駄36貫目(風袋6貫目込み)7~5匁位とのことである。各村の生産高についても取材しておいた。茶の値段も烏梅と同じく政権によって違ってくると話してくれた。
 ところで武兵衛には昨日から案内を頼み、今夜は一晩中梅について聞いたが、疲れた様子もなく、自分が口遊んだ「両山・・・」の詩を酔余諷詠していた。おもしろい人物だ。
本文010.jpg
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水野忠邦
 本文に「水野様の御趣意の頃」とあるのは、浜松藩主水野忠邦が老中として幕政を主導していた頃、ということ。天保12年から14年まで天保の改革を推進し、一旦失脚。15年(辰年)に再任され、翌弘化2年(巳年)に隠居に追い込まれた。紅花染めをした織物などは奢侈の代表であり、その媒染に使われる烏梅は不要のものであった。
寛政6年(1794)、生まれ
文化9年(1812)8月、 肥前国唐津6万石藩主となる。
文化14年(1817)8月 、遠江国浜松6万石に転封。
天保5年(1834)3月、老中。
天保10年(1839)12月、老中首座。
天保14年(1843)閏9月、 老中御役御免。
天保15年(弘化元年・1844)6月、老中再任。老中首座。
弘化2年(1845)2月、老中辞職。9月、隠居蟄居、1万石没収。11月、出羽国山形5万石に転封。
嘉永4年(1851)2月、没。
*本文中の「辰巳」とは
 辰=天保15年(=弘化元年・1844)、巳=弘化2年(1845)のことである。
 武四郎と梅屋武兵衛にとっての現在は嘉永5年(1852)である。
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月ヶ瀬地域の茶栽培
お茶map.jpg
月ヶ瀬地域のお茶map 「月ヶ瀬健康茶園」HPから
詳しくはこちらから
http://www.tukicha.com/map/
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挿絵-3 2020/03/26 [梅嵯峨志]

10丁目挿絵
挿絵追加15LR03.jpg
1丁見開き。綴じ代部分を取って貼り付け、下部を省略した。名張川右岸の風景である。
画中書き込み
天狗岩 八王子 尾山 真福寺 サカシクト? サガタキ ホウラ 杉谷 タキノモト? 戎社 治田 渡シ
*サガタキは本文中に「嵯峨滝」とある。 
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11丁目挿絵
挿絵追加16R-02L.jpg
1丁見開き。綴じ代部分を取って貼り付け、下部を省略した。名張川右岸、前図に連続する下流の風景である。
画中書き込み
トント山 長匹 八王子 産神 長福寺 ヒカシモヽ? 一目千本 九マガリ 代カン坂 ホメキ石? インカ坂? 百本ミセ アヤメ谷 五百? 神王谷 舟屋瀬
*「長匹」は現在「長引」。「九マガリ」は「九折」のことか。「アヤメ谷」は本文に「菖蒲谷」とある。
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連続挿絵
上掲2図を左右に並べてみると、写真の貼り合わせのように、連続した挿絵ができる。地理的にも、長匹(長引)-尾山-治田と続いていて問題ない。
挿絵追加15-16連続.jpg
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挿絵-2 2020/03/25 [梅嵯峨志]

5丁目の挿絵-獺瀬・法田渡・中峯山
薬師・天王-06.jpg
1丁見開き。綴じ代部分を取って貼り付け、下部を省略した。名張川左岸の風景である。左下部は名張川の流れ。左から右に流れている。
画中の書き込み 吉田 法田渡 中峰山 天王 獺瀬 ? 薬師
薬師の左の書き込みが読めません。「嵩」とありたいところです。
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6丁目の挿絵-護摩壇石・筏
護摩壇-06.jpg
筏挿絵-06.jpg上掲は6丁目の下部に描かれた挿絵。1丁見開き。綴じ代部分を取って貼り付けた。
 この挿絵は、次の記事に対応する所である。
翌日は早天より、杉谷、ホウラ、嵯峨滝の辺見物して、神王谷、菖蒲谷より渡し場に到りて船を雇て、川下七、八丁の梅を見、又逆ること五、六丁にして護摩壇石に船を繋ぎ、中流を汲て茶を煎じ、其風景を見るに、漸々と四つ頃に到りて此方彼方に日当り来り、未だ消やらぬ露に其輝さま如何にも銀世界とぞ覚えられけり。
上掲挿絵の上には本文が書かれているが、その上部に右の筏の挿絵が小さく描かれている。
ここに掲げた3枚の挿絵は、本文に次のようにある所である。
本文再掲。
扨是より又、九折を登ること十二、三丁にして兀たる岳に上る。此上に小堂有。薬師如来の像を安置する也。其作は行基菩薩の作也と聞り。三、四丁下りて
村に到る。此村少し高き場所にして、頗る眺望よろし。然し、此薬師山の西南に当りて川を見ることはなし。土地は肥沃にして野菜并麦等もよく出来たり。然れども田は少しも無様に覚ゆ。杉むら、松林頗るよく盛長せり。梅は少し。又山の半腹を行こと凡半り斗にして、 獺瀬村に到る。此村も山間の村にて人家は高下に立並びたり。田畑少し有。梅はまだ少し。土地も随分よろしき様に覚ゆ。是よりして十丁斗も山に上り羊腸を少し行て、則、
中峯山村に到る。此処人家少しまとまりて、豆腐、わらんじの様なるものも有よし。是に休らひて上より筏の来るを待けるに、春日の長ければ今しばらくも有べき由なれば、うらなる 天王山に登る。此社は牛頭天王を祭りし社にして、此辺りの大社也。森たる杜の中に建て頗る神寂たること也。是より奈良へ六りの由。是を石割越、又は天王越とて二道有よし聞り。扨其より下りの来るを待て、此筏に便を乞乗るに、凡七つ前とも思わる。

「羊腸」とあるが、ジグザグ道のことである。「九折」ともいう。
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